プロローグ 「人形の間」のブレックファースト
- Mark
- Dec 13, 2017
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Here is a sample of a Japanese novel my wife is writing called Phoebe and Pegasus Fountain
プロローグ 「人形の間」のブレックファースト

その部屋は「人形の間(ま)」と呼ばれていた。
緑の蔦(つた)に覆(おお)われた、古城のような建物の片隅にひっそりと存在するその部屋には、誰も知らない秘密が隠されていた。
夜明け前の今は、部屋の錠(じょう)は固く下りている。でも、一度でもこの部屋を訪れた人はみな、不思議な雰囲気の漂(ただよ)うこの小さな部屋を、なぜかいつまでも忘れることがなかった。
建物の名は、ホテルヴィクトリア。
最上階では、一人の幼い女の子がすやすやと眠りについている。やがて訪れる新しい一日が、自分の運命と「人形の間」のすべてを木っ端微塵(こっぱみじん)にしようとしていることなど、どうやらまだ知らないようだ。
閉ざされた扉の奥深くで、ホテルヴィクトリアのひそやかな住人は、小さな、小さな唇をかみしめた。
決断しなければ。
この部屋に隠された秘密の扉を開け、旅立つ時がきたのだ。
☆
「ベーコンにメープルシロップをかけてくれたか?」
「ああ。もうオーブンに入れるだけだよ」
「イングリッシュマフィンの焼き具合は?」
「いつも通り完璧だ。ポーチドエッグも上々の仕上がりだな」
「ローストアップルはどうだ?」
「たった今、出来上がったばかりさ」
建物の一角では少し前に灯(あか)りが灯(とも)り、真っ白なコックコート姿の料理人たちが忙しそうに働いていた。いくつもの働き慣れた手が、ソテーパンを揺らし、バナナブレッドをスライスし、洋梨(ようなし)やプラムをさっと洗ってガラス皿に盛りつけていく。
「ああ、おはようモニカ」
重々しい扉の向こうから現れた女性を見て、一人のコックが手をあげた。古風な黒のメイド服を身に纏(まと)い、洋服と同じ色合いの黒髪を品よく結いあげたその女性は、銀のトレーを手にしたままコックのそばに歩み寄った。
「ベーコンはそろそろ焼きあがるところだよ。ハニーローストハムもあるし、ターキーとポーク、どっちのソーセージも熱々だ」
モニカは迷ったように首を傾(かし)げた。
「昨日はスモークサーモンにベーグルだったの。今日はパンケーキを焼こうと思っているんだけど……」
「パンケーキか。じゃあ、ベーコンがお勧(すす)めだな。昨日届いたばかりのケベック産のメープルシロップをからめて、じっくり焼いている。フィービー様だって好物だ」
コックの言葉に、そうね、と頷くと、モニカは心を決めたように小振りのソースパンを火にかけた。トレーの上には、ままごとで使うようなミニチュアサイズの食器が形よく並んでいる。バターミルクをたっぷり入れた生地が、スプーンの先からぽたん、と落ちた。一セント硬貨ほどのかわいらしい生地が、空気を含んで次第に膨(ふくらんでいく。
カリッと焼き上がったベーコンが並んだ鉄板をオーブンから取り出したコックは、そのうちの一枚を手早く刻むと、焼き上がったばかりのパンケーキのそばに盛りつけた。別のコックも、貝殻(かいがら)のように小さなオムレツを添えてくれた。
通常の食器の1/8サイズで作られたティーポット。小さなカップに注(そそ)がれた紅茶。
薄いガラスの器(うつわ)を彩(いろど)る、レストラン特性のフルーツグラノーラ。
トレーにはいつの間にか、絞り立てのオレンジジュースやヨーグルトも並んでいる。
誰のためのものなのだろう、かわいらしい朝食の準備を終えてキッチンを出るモニカに向かって、コック達が「フィービー様によろしく」と声をかけた。
ダイニングレストランでは午前七時のオープンに向けて、ウエイター達がテーブルを整えているところだった。モニカは朝日の差し込むレストランを出ると、正面に広がる優雅な階段を下り始めた。朝食に向かうホテルの宿泊客達が、モニカが持つトレーを目にして驚いた様子で振り返った。
「まあ、なんてかわいらしいの。でもあの食器に盛りつけられている食事はどう見ても本物よ」
「パンケーキがあんなに小さい。それにほら、よく出来たティーセットまで!」
「とってもおいしそうだ。何だか急にお腹がすいてきたな。同じメニューがレストランにあるといいが。それにしても、あんなに小さなブレックファーストを一体どこに持っていくんだろう?」
モニカが立ち止まった先は、ロビーの端にある美しいアーチ型のドアの前だった。壁には「人形の間」という文字が彫(ほ)られた金色のプレートが掛けられている。そっとドアを開けて薄暗い部屋の中に入ったモニカは、出窓を覆(おお)うカーテンを引いた。部屋中にさっと光がさし込み、この部屋の名前の由来であるドールハウスが、朝日の中で目覚めるように姿を現し始めた。
それは美しいドールハウスだった。
壁に作りつけられた二階建てのハウスには、まるで本物の家具のようによく出来た、ミニチュアの揺り椅子やダイニングセットが置かれていた。客間には小さな暖炉まである。キッチンの飾(かざ)り棚(だな)には美しい青磁(せいじ)の食器が並び、真鍮製(しんちゅうせい)の料理用ストーブはすぐにでも温かなスープを煮込むことが出来そうだ。壁には様々な形の銅製の鍋(なべ)が掛けられ、そのかわいらしさは、ままごと好きの女の子なら誰でも宝物にしそうなものばかりだ。
書斎に並ぶ古びた革張りの本。
テーブルの上に無造作に置かれた、マッチ箱のようなチェスボードとトランプ。
ハンカチほどの大きさのリネンをかけた、天蓋(てんがい)つきのベッドと木製の化粧ケース。
仮に自分の体を縮(ちぢ)めてこの部屋に住むことになったとしても、心地よく過ごせることは間違いなさそうだ。
新しい朝の空気をふんだんに入れた部屋の中で、モニカはすぐに手を動かし始めた。銀のトレーに並べられた朝食が、ドールハウスのダイニングルームのテーブルに一皿一皿並べられていく。
そろそろフィービーが最上階からおりてくる頃だ。ポケットから万年筆と小さなカードを取り出したモニカは、流れるような文字で何かを書き始めた。焼き立てのパンケーキにかけられたメープルシロップの甘い匂いが微(かす)かに鼻をつく。
やがて、部屋の隅にある細長い柱時計がボーン、ボーンとくぐもった音を立て始めた。その鐘(かね)の音に重なるように、扉の向こうからほとんど駆け足に近い足音が聞こえ、生真面目(きまじめ)な表情をしていたモニカの唇の端(はし)がわずかに揺るんだ。
時計が最後の7つ目の音を打ち終わった時、モニカは書きあげたばかりの「人形の間」のブレックファーストのメニューを手に、立ちあがった。
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