何だか様子が違う……。
- Mark
- Dec 13, 2017
- 8 min read
Here is a final sample of the Japanese novel that my wife, Izumi, is writing.
何だか様子が違う……。
フィービーは急に立ち止まった。見慣れているはずのホテルヴィクトリアの様子が、心なしか普段と違うような気がするのだ。
エントランスへと続く道は花が咲き溢れ、多くの観光客で賑わっていた。あちらこちらでカメラのシャッターを切る音が聞こえてくる。いつもと変わりない午後の風景だ。
でも、何かが違う。何だか、何かがいつもとは……。
もやもやとした気持ちのまま、無意識にホテルの最上階を見上げたフィービーは、ふと眉をひそめた。
「あれ? バルコニーに誰かいる」
にわかにフィービーの胸がざわめき始めた。
風になびく髪。すらりとした立ち姿。しばらく見ることの出来なかった、端正な横顔。
「クリスティ!」
船の汽笛や海鳥の鳴き声にかぶさるように、フィービーの声が辺りに響きわたった。振り返った女性の顔を見た瞬間、フィービーは駆け出した。
突進する子牛のような勢いのフィービーに驚いたドアマンのフレディは、慌ててガラス張りの扉を開けた。
「おかえりなさいませ、フィービー様」
「フレディ! クリスティが帰ってきたの!」
「クリスティ様が?」
二人の会話は、到着したばかりの宿泊客(ゲスト)を案内していたコンシェルジュのロベルトや、スーツケースを金色のワゴンに乗せているベルボーイ達にも聞こえたようだった。
「クリスティ様が?」
「帰っていらした?」
ロビーに生まれた微かな驚きはゆっくりと周囲に広がり、やがて何とも言えない晴れやかな空気が辺りを満たし始めた。
フィービーは息を弾ませたまま、ほとんど叩くようにエレベーターのボタンを押した。
「あー、もう! こんな時に限って!」
エントランスホールへと踵(きびす)を返したフィービーは、学校の鞄をぶんぶんと振り回しながら、ものすごい速さで大きな螺旋階段を駆け上がった。
クリスティが、帰ってきた!

まるでサッカーボールのように広間に転がり込んだ途端、フィービーの手から鞄が滑り落ち、バルコニーから吹いてくる風にのって何十枚もの紙が舞い散った。一瞬真っ白になった視界の向こうで、しっとりとした懐かしい声が響く。
「相変わらず賑やかね」
歓声をあげた小さな妹を、クリスティは笑って抱きしめた。
「会いたかったわ、フィービー」
「私も! 私もよ、クリスティ!」
「クリスマスまで会えないと思っていたわ!」
床を埋め尽くした便せんを拾いながら、フィービーは息を弾ませた。フィービーを手伝おうと床に手を伸ばしたクリスティは、紙に綴(つづ)られた不揃(ふぞろ)いなアルファベットに視線を走らせた。それは授業の合間やお昼休みにフィービーが書き溜めた、クリスティへの手紙だった。クリスティは目を細めた。
「私に書いてくれたの?」
「そう。たくさん書いてイギリスに送ろうと思っていたの。そしたらここにいなくても、ホテルヴィクトリアの様子がわかるでしょ」
やっと揃った紙束を膝の上でとんとん、と整えながら、フィービーは元気よく答えた。
「ずいぶん長い文章が書けるようになったのね」
「うん。一年生になったばかりの頃は、しょっちゅうスペルを間違えてばかりで大変だったのよ。書くよりしゃべった方がずっと速いと思ったら、口が勝手に動いちゃうし。でも、ミス・クラベルに、ホテルヴィクトリアでの出来事を手紙に書いてクリスティに送ったらどう? そうすればもっと楽しく文章が書けるようになるわよって言われて、そうだ!って思ったの。書きたいことがありすぎて、こんなにたくさんの束になっちゃったけれど」
その言葉で何かに思い当たったように、クリスティは顔をあげた。
「ミス・クラベルはお元気?」
「元気よ。厳しい時もあるけれど、授業の時以外だったら、ホテルヴィクトリアの話をいつでも聞いてくれるの。『将来の夢』っていう作文で、ママみたいにホテルヴィクトリアの女主人になりたいって書いたら、とても喜んでいたわ。応援してくれるミス・クラベルのためにも、私、絶対に学校の勉強もがんばるって決めたの。でも、時々はホテルのことばかり考えて、上手くいかないこともあるんだけど」
急に今日のことを思い出したフィービーは、ブルドッグの子犬のように眉間にぎゅっと皺をよせた。クリスティは思わず吹き出した。
「大丈夫よ。私も小学校ではそうだったの。興味のあることばかりに夢中になって、よく先生に注意されていたわ」
「クリスティが!? 本当? クリスティでも先生に注意されたことがあるの?」
「何度もね」
クリスティは浅い笑顔を浮かべながら、遠い時間を遡るように、バルコニーの向こうに広がる晴れ渡ったインナーハーバーに目をやった。
☆
クリスティが小学校に通うのをやめたのは、ミス・クラベルとの出会いがきっかけだった。
入学するまでの間、小さなクリスティの一番のお気に入りは父親のジョンの書斎だった。骨董好きのジョンが買い集めた希少な本が並ぶその部屋で、幼いクリスティは不思議なほど時間を忘れ、本のページをめくり続けていた。
ある日の午後、ジョンが書斎のドアを開けると、四歳になったクリスティが床で頬づえをつきながら、一冊の古い本を眺めていた。
「やあ、クリスティ。何を読んでいるんだい?」
「パパ。窓にかざられているひまわりの種はね、真ん中の方から右まき、左まき、右まきって、こうたいごうたいにうず巻きになっているの」
ジョンは思いがけない返事に、少し驚いて窓辺を見た。クリスタルの美しい花瓶には、種類の異なるいくつかの向日葵(ひまわり)が生けられていた。ジョンは花瓶を覗き込んだ。びっしりと並んだ種は、確かに中心から交互に渦を巻いている。
「本当だ。パパ、これまで気づかなかったな。向日葵はうず巻きさんだったんだ」
おどけて言うジョンに、クリスティは幼い顔に不釣り合いな、大人びた表情で答えた。
「最初のうずまきに並んでいる種が34こ、次がはんたいまわりに55こ、その次がまた、はんたいまわりに、89こ。この本に書いてあるように、ひまわりの種の数は、フィボナッチ数列なの。前の二つの数をくわえると、次の数になるから」
その言葉に息をのんだジョンは、小さな肘の下に広げられた、色あせたページに目をやった。それは「算盤(そろばん)の書」と呼ばれる古い数学書だった。数年前にニューヨークのオークションで、ジョンが自ら競り落とした古書だ。こんな小さな女の子に理解できるはずがない。それでもこの出来事は、これから起こる奇跡のほんの前触れでしかなかった。

クリスティの成長はめざましかった。
五歳になる頃には、既にバッハの無伴奏ヴァイオリンソナタを引きこなし、様々な外国語のニュース番組を食い入るように見ているうちに、いつの間にか数カ国語をマスターして周囲の大人を驚かせた。
ところが六歳になったクリスティが小学校に通い始めた途端、それまでの様子が一変した。顔色は日に日に悪くなり、聡明な瞳に暗い影が差すようになったのだ。アリスが学校の様子を聞いても、悲しそうに目を伏せるだけで返事をほとんどしない。食事も喉を通らず、小さな体は見る見るやせ衰えていった。アリスは途方にくれてしまった。
そんな時、ミス・クラベルがミッドウエスト小学校にやってきたのだった。クリスティを一目見た彼女は、目の前にいる少女が他の子どもとは全く違う存在であることを理解した。
一週間後、ミス・クラベルはホテルヴィクトリアを訪れた。不安げな表情を浮かべるアリスに、ミス・クラベルははっきりとした口調でこう告げた。
「クリスティは、お父様やお母様が思っているような賢い子ではありません」
ショックを隠せず、動揺するアリスの様子を一切気にする様子もなく、ミス・クラベルは言葉に更に力を宿して続けた。
「クリスティは天才なのです。それも類(たぐ)い稀(まれ)な。彼女の悲しみは、周りがそれを理解出来ないことにあるのです。ミッドウエスト小学校は素晴らしい学校です。でも、クリスティに限って言えば、彼女がいるべき場所はここではありません」
その夜、ジョンはいつになく厳しい表情を浮かべながらアリスの話を聞いていた。アリスが寝室に姿を消した後も、ジョンはクリスティが無心に読んでいた「算盤(そろばん)の書」を手にしながら、長い間物思いに耽(ふけ)っていた。
いつしか辺りはうっすらとした明るみを帯び始めていた。ジョンは淡い桃色の光に誘われるように、バルコニーに出た。朝日がインナーハーバーを照らし、水面は宝石のように輝き出していた。
ジョンは決心した。
クリスティに新しい世界を与えよう。
それから程なくして、ジョンとアリスは世界で活躍する学者や芸術家をホテルヴィクトリアに招き、クリスティに彼らと触れあう機会を与えた。他のどのホテルでも味わえない素晴らしいもてなし以上に、人々は皆、この小さな天才の存在に喜びを隠さなかった。そして、クリスティの才能が更に大きく花開くよう、温かなアドバイスを与えてやまなかった。
クリスティがミッドウエスト小学校に戻ることはなかった。ホテルヴィクトリアが知識の泉となったのだ。それ以来、世界中から集まった教師達とミス・クラベルの手によって、この小さな天才は希少なバラが細やかな世話を与えられるように、ホテルヴィクトリアで大切に育てられてきたのだった。
その万能の才能はクリスティが十九歳になった今、ダ・ヴィンチの再来とも言われるほどに気高い輝きを放ち続けている。ラテン語や古代ヘブライ語を含む二十数カ国語の言葉を自由に操るクリスティは、プロのヴァイオリニストとして名門のオーケストラと共演を重ね、乗馬やアーチェリーではカナダの代表に選ばれるほどの腕前だ。
十八歳にして、文学、歴史学、言語学、天文学、そして数学の分野で既に博士号を取得し、いつしか「ホテルヴィクトリアが生んだ奇跡」と呼ばれるようになったクリスティは、オックスフォード大学に招かれて、去年の秋からホテルヴィクトリアを離れてイギリスで暮らし始めていた。
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